建国の精神

皇祖皇宗の我が國をお開きになるに当たっては、其の規模が廣大で、しかも永遠に亙って動かないようになされた。教育に関する勅語に、「皇祖皇宗を肇むること宏遠に」と仰せられてあるのは、此の義をお諭しになったのである。

天照大御神の神勅に、「豊葦原瑞穂國は我が子孫の君たるべき地なり。汝皇孫ゆいて治めよ。寶祚の隆えまさんこと天壌とともに窮なかるべし。」と仰せられてある。此の神勅は実に我が建國の根本精神を明らかにお示しになったものである。神勅にいはゆる寶祚とは、大日本帝國を統治せられる天皇の御位のことであって、即ち皇位である。天孫降臨以来、御子孫が相継いで此の皇位にお即きになって、我が國を
統治せられている。我が國に於いて君臣の分が定まり、皇位が天地と共に窮のないことは、此の神勅に由って知られるのである。皇孫邇邇芸尊が神勅を奏じ、諸神を従へて此の國にお降りになる祭に、大神は、三種の神器を尊にお授けになって、「此の鏡を視ること我を見るが如くせよ。」と仰せられた。それから三種の神器は御歴代の天皇が践祚と共に之をお受継ぎになり、皇位の御しるしとなされることとなった。

邇邇芸尊から彦火火出見尊を経て、鵜葺草葺不合尊まで、御三代の間は日向の高千穂宮におはしまして、静かに御徳をお養いになった。それから神武天皇の御代となったが、天皇は遠く隔った地方がまだ皇室の御恵に霑はないのをお嘆きになり、永く西偏に留っていては、「天業を盛んにすることが出来ないと思し召されて、舟軍を率いて東方にお進みになり、遂に大和地方を平定せられ、都を橿原に定めて御即位の禮を挙げになった。天皇は都をお定めになる時、詔をお下しになって、「當に山林を披き、宮室を営みて、恭しく寳位に臨みて人民を鎮むべし。かくして上は天神の國を授け給いし徳に答へ、下は皇孫の正を養ひ給いし心をひろめ、しかる後六合を兼ねて都を開き八紘を掩ひて宇とせんことまた可からずや」。と仰せられた。又御即位の四年には、「我が皇祖の霊天よりかうかんして朕が身を光し助け給へり。今諸虜既に平ぎ、海内事なし。天神を祀りて大孝を伸ぶべし。」と仰せられて霊時を鳥見山に立て、皇祖天神をお祀りになった。

かように我が国は建国の規模が宏遠であって國初から今に至るまで、萬世一系の天皇が相継いで君臨せられている。これは實に萬國に比類のないところである。

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